「山下さん、おじゃましますです」
「あらあらあおいちゃん、ようこそ。うふふふっ」
掃除機を持ったあおいが、山下の部屋へと入ってきた。
「いつもありがとう、あおいちゃん」
「いえいえ、これも大切なお仕事ですです」
「それで? 今日はお昼、来れそうかしら」
「はいです。菜乃花さんも手伝ってくれるようになりましたので、休憩時間もしっかり取らせてもらってますです。お昼ご飯が終わったら、すぐにお邪魔させていただきますです」
「楽しみに待ってるわね。あおいちゃん、今日はどんな気分かしら」
「今日は楽しいのが見たいです」
「楽しい気分なら……これなんかどうかしら」
山下がDVDを取り出し、あおいに見せた。
「『小さな恋のメロディ』……いいですね。私、この映画大好きです」
「うふふふっ、やっぱり知ってた?」
「はいです。ちっちゃな男の子と女の子の恋の物語。これを観ると私、すごく幸せな気持ちになれるです」
「本当に罪のない物語よね。私も大好きなのよ」
「最後のシーン、二人に向かって『幸せになってください』って叫びたくなりますです」
「分かるわそれ。私もそうだもの」
「お昼が楽しみになってきましたです」
「うふふふっ。私も楽しみに待ってるわ」
「ではその前に、お部屋のお掃除しますです」
「はい、お願いね」
あおいが窓を開け、床に置いてある荷物を片付ける。
小さなテーブルの上には、山下が趣味で作った造花を入れた器が、写真立てを囲むように並んでいる。 写真には子供と孫たちが写っている。 戸棚と箪笥の間に小さめの仏壇、そこに山下の夫の遺影が祀られていた。 掃除機をかけ、その後でテーブルの上や仏壇を丁寧に拭いていく。 最初の内は花瓶をひっくり返し、遺影を倒して落ち込んでいたが、めげずに毎日やっていく中で、少しずつ手際もよくなっていた。「
「東海林医院で働き始めた頃。お前は張り切って、いつも夜遅くまで患者さんのカルテに目を通してた。 患者さんって言ってもこんな小さい街だから、ほとんど顔見知りだ。お前、いつの間にかこの街のみんなの健康状態、把握してたもんな」「……私はこの街も、この街に住むみんなのことも好き。だから私は、私が出来る精一杯のことをしようと思ってた」「おかげでお前は睡眠不足が続き、注意力も散漫になった。そんなある日、お前は岡田さんの薬の処方を間違えてしまった」「……」「お前を知ってる俺からしたら、ありえないミスだった。低血圧の岡田さんに降圧剤を処方したんだからな」「……処方箋をチェックしてて、頭が真っ白になったわ。処方箋から目が離せなくなって、その場から動けなくなった。 そんなことしてる場合じゃない、すぐ連絡しないと大変なことになる。そう思ってるのに、何も出来なかった。 父さんがそんな私に気づいて処方箋を見て、慌てて連絡してくれた。岡田さん、もう既に夜の分を服用してたけど、特に異常はないみたいだった。車で岡田さんの家に行って、お父さんが処置してくれたから大事に至らなかったけど……私は謝ることしか出来なかった」「……」「間違いは誰にでもある。ミスをするのが人間、それは分かってる。でもね、私たちの仕事は、小さなミスが取り返しのつかないことにだってなるの。人の生死に関わることなんだから。 あおいにそんな思いをさせたくないの。だから……だから、私……」 そう言って膝に顔を埋め、肩を震わせた。 そんなつぐみの肩を抱き、直希は囁いた。「分かってる。分かってるよ、つぐみ」 * * * 夜。 食堂で、直希はいつもの様に入居者たちの健康ノートに目を通していた。 このノートには、入居者たちの年齢
「だーかーらー! あおいってば、何度言ったら分かるのよ」「うう~、ごめんなさいです……」 食堂のカウンターで、今日もあおいはつぐみに説教されている。「小山さんは嚥下の能力が落ちている。だから小山さんに出す食事は、小さく刻む」「はいです……」「でもね、出す前にそれをやってしまったら、何を食べてるのか分からなくなるでしょ。見てみなさいよこの料理。細かく刻み過ぎて、何の料理だか分からなくなってるじゃない」「どうしたどうした、何かあったのか」 つぐみの剣幕に、風呂の準備を終えた直希が慌てて食堂に戻ってきた。「あおいちゃん、どうしたのかな」「……直希さん、ごめんなさいです」「つぐみ、何の失敗か知らないけど、あおいちゃんはまだ仕事の要領つかめてないんだから。あんまり怒ってやるなよ」「直希は甘すぎるのよ。こんなんじゃヘルパーの資格、取れないわよ」「だから今、講習に行って勉強してるんじゃないか。あおいちゃん、心配しなくていいからね。初任者研修は、講習を真面目に受けてたらちゃんと取れるから」「そういう問題じゃないでしょ。そんな気持ちじゃ、一人前のヘルパーになんてなれないんだから」「あおいちゃんは講習を受けながら、こうして実戦でも鍛えてるんだ。何より気持ちがある。入居者さんに対する思いがある。だから大丈夫、あおいちゃんはきっと、立派なヘルパーになれるよ」 直希の言葉に、つぐみが苛立ちテーブルを叩いた。「それじゃ駄目なのよ!」「……つぐみさん?」「……ごめんなさい。直希、後はまかせてもいいかしら」「おう。ちょっと休んでこい」「お願いするわ」 そう言うと、つぐみはエプロンを外して庭に向かった。「つぐみさん……あんなに怒らせてしまったです」
「山下さん、おじゃましますです」「あらあらあおいちゃん、ようこそ。うふふふっ」 掃除機を持ったあおいが、山下の部屋へと入ってきた。「いつもありがとう、あおいちゃん」「いえいえ、これも大切なお仕事ですです」「それで? 今日はお昼、来れそうかしら」「はいです。菜乃花さんも手伝ってくれるようになりましたので、休憩時間もしっかり取らせてもらってますです。お昼ご飯が終わったら、すぐにお邪魔させていただきますです」「楽しみに待ってるわね。あおいちゃん、今日はどんな気分かしら」「今日は楽しいのが見たいです」「楽しい気分なら……これなんかどうかしら」 山下がDVDを取り出し、あおいに見せた。「『小さな恋のメロディ』……いいですね。私、この映画大好きです」「うふふふっ、やっぱり知ってた?」「はいです。ちっちゃな男の子と女の子の恋の物語。これを観ると私、すごく幸せな気持ちになれるです」「本当に罪のない物語よね。私も大好きなのよ」「最後のシーン、二人に向かって『幸せになってください』って叫びたくなりますです」「分かるわそれ。私もそうだもの」「お昼が楽しみになってきましたです」「うふふふっ。私も楽しみに待ってるわ」「ではその前に、お部屋のお掃除しますです」「はい、お願いね」 あおいが窓を開け、床に置いてある荷物を片付ける。 小さなテーブルの上には、山下が趣味で作った造花を入れた器が、写真立てを囲むように並んでいる。 写真には子供と孫たちが写っている。 戸棚と箪笥の間に小さめの仏壇、そこに山下の夫の遺影が祀られていた。 掃除機をかけ、その後でテーブルの上や仏壇を丁寧に拭いていく。 最初の内は花瓶をひっくり返し、遺影を倒して落ち込んでいたが、めげずに毎日やっていく中で、少しずつ手際もよくなっていた。「
陽が落ちると、明日香の号令で花火が始まった。 肉を十分に堪能したあおいも、みぞれやしずくたちと一緒になってはしゃいでいる。「楽しそうだよな、あおいちゃん」「そうね。あの子、基本的に能天気だけど、仕事中は結構いっぱいいっぱいになってるから。今日一日見てたけど、やっと本当のあおいを見れた気がするわ」「ははっ」「何?」「いや、なんだかんだでつぐみ、あおいちゃんのことを見てくれてるなって思って」「そ、そんなんじゃないから。私はただ、同僚として彼女を観察してるだけよ」「分かった分かった、そんなにムキになるなって。ほら、一緒にやらないか?」 そう言って直希から渡されたのは、線香花火だった。「好きだったろ? これ」「……覚えてたんだ」「当たり前だろ。何年付き合ってると思ってるんだよ」「全く……変なことばっかり覚えてるんだから……」 火をつけると、優しい火花が二人を照らした。「勝負するの、久しぶりだな」「今まで私の全勝。直希はすぐ落としちゃうんだから」「集中するのが難しいんだよ、これって……あ」「はい、また私の勝ち。ふふっ」「ははっ」 直希が立ち上がり、大きく伸びをした。「そろそろお開きかな」「そうね。みなさんも疲れたと思うし」「そう言うお前もだろ。今日はもういいから、みんなと一緒に部屋に戻れよ」「いいわよ。どうせ直希、この後一人で片付けるつもりなんでしょ。私も手伝うわよ」「いいよこれぐらい。大きいやつは明日片付けるし」「私がしたいのよ。このまま朝まで放っておくのが我慢出来ないの」「じゃあ頼むよ。おーいみんなー、そろそろお開きにしようか」「は、はいです直希さん。ごめんなさいです、私、今日一日ずっと遊ん
「いやー、遊んだ遊んだー」 あおい荘への帰り道。明日香はビールを片手に上機嫌だった。「結局勝負、つかなかったわね」「まあ……つぐみに勝負事を持ち込んだ時点で、こうなることは分かってたけどな」「あはははははっ、そうだね。つぐみんったら、負けるたんびに『ルールは決めてないんだから、参ったって言うまで終わらないわよ』なーんて言うんだもん」「間違ったことは言ってないでしょ」「いやいやおかしいって。単にお前が、負けず嫌いなだけじゃないか」「結局あの後、ずっとビーチバレーでしたです」「何よ、あおいまで」「でもつぐみさん、私、楽しかったですよ」「……ありがと、菜乃花」「さあ戻ってきたぞ。みんなまず、お風呂で体、洗っておいで。その間にバーベキューの用意、しておくから」「直希さん、私も手伝いますです」「まーたまたまたダーリンってば、そんな白けるようなこと言って。みんなで仲良く入ろうよー」「なっ……」「え……」「あはははははははっ、何よつぐみん、なのっちも。赤くなっちゃって」「な、何言ってるのよ! そんなの許さないんだから!」「なんで俺を睨むんだよ。冤罪だ冤罪」「直希さん、私が背中、洗ってあげますです」「あおいも何馬鹿なこと言ってるのよ。ほら、さっさと行くわよ」「ええー、ダーリン、ほんとに入らないのー?」「あんまりからかわないでくださいって。ほら、菜乃花ちゃんなんか真っ赤になってるじゃないですか。菜乃花ちゃんも、シャワー浴びてさっぱりしておいで」「は、はい。すいません、ではお先にいただきます」「あおいちゃんも入っておいで。上がってくる頃には用意、出来てるからね」「分かりましたです。でも直希さん、本当にいいんですか?」「いいよ。それより
「やっと見つけた。直希あなたね、離れるなら声ぐらいかけなさいよね」「ああ、悪い悪い。菜乃花ちゃんを探してたんだ……って、お前こそ菜乃花ちゃんをほったらかしにして。一緒に遊んでやれよ」「あ、あの、直希さん、その……私のことはいいですから」「……そうね、悪かったわ菜乃花。折角みんなで来てるんだから、一緒に遊ばないとね」「そんな……つぐみさん、謝らないでください」「いいんだよ菜乃花ちゃん。つぐみが素直に謝るなんて、そうそうないんだから。こういう時は受け入れてやって」「何よ、人がちゃんと謝ってるのに」「あおいちゃんは?」「お腹が空きすぎて、もう動けないらしいわ」「電池、もう切れちゃったのか。分かった。菜乃花ちゃん、ちょっと早いけどお昼にしようか」「はい」「それで? あおいちゃんはどこに」「あれよ」 つぐみが指差す方向を見ると、砂浜で倒れているあおいの姿が見えた。「……流れ着いた遭難者みたいだな」「さ、早く行きましょ。でないとあおい、食べ物につられて男たちに持って行かれるわよ」「……だな」 * * *「ほらほらあおいちゃん、誰も取らないから、落ち着いて食べてね」「はいです……むぐむぐ……」「……やっぱ聞いてないよな」 パラソルの下、4人での昼食タイム。 海の家で、焼きそばの香ばしい匂いに心奪われたあおいは、捨てられた子猫のような顔で直希を見つめた。「食べたいだけ、頼んでいいよ」「本当ですか!」「遠慮しなくていいからね」「ありがとうございますです! おじさん、焼きそ